尾崎翠

ちくま日本文学全集 尾崎翠
また読んじゃった。思い出してはページをめくる。昭和初期のサイケデリア。
今日は、『地下室アントンの一夜』。
胃散で食後の運動をする恋に落ちた青年詩人と、「季節外れ、木犀の花咲く一夜、一瓶のおたまじゃくしは、一個の心臓にいかなる変化を与えたか」という著述をかく動物学者、戯曲全集と遍歴ノオトを携えた心理学徒。

地下室−おお、僕は、心の中で素晴らしい地下室を一つ求めている。うんと爽やかな音の扉を持った一室。僕は、地上のすべてを忘れてそこへ降りて行く。むかしアントン・チェホフという医者は、どこかの国の黄昏期に住んでいて、しかし、いつも微笑していたそうだ。僕の地下室の扉は、その医者の表情に似ていて欲しい。地下室アントン。僕は出かけることにしよう。動物学者を殴りに行くよりも僕ははるかに幸福だ。


さてこれを読んで以来、私はある種の人たちを心の中で(愛情を持って)アントンと呼んできた。顔を見て、なんとなくこの人はアントンだ、と。最近だといつもバス停で見る同じ大学のある男の子で、いつも決まってきびしい顔で煙草を吸っている。でも去年の夏に本当にアントンという名前のスウェーデン人に会い、彼はとても賢くお洒落な青年で、青空の下でタンクトップが似合うような人だった。