ショックと千本の竹の話

これがミレーの「オフィーリア」

今せっかくいっぱい書いたのに勢いで全部消しちゃった。はあ。

レイアウトを変えてみたらはてなキーワード化された単語が薄くなっちゃって不満です。でも前よりはいいかな。



金曜日は国文科の授業を一つ他学部聴講していて、人数も10人程度のクラスなので少し緊張します。でもやっていることはおもしろい。今日は授業中に先生が何気なくこんな話をされました。

こうやって小説を読んでいくのはね、千本の竹の中から一本の光る竹を見つけるようなものなんですよ。まあどこかにその一本があるなら端っこから一本ずつ切っていけばいつかは見つかるわけですけれど・・・でも一回でその光る竹を見つけてスコーンと切ってみて、中からかぐや姫が出てきたらブラボーじゃないですか。それでかぐや姫をすくすく育てていくんですよ。

とかそんなかんじの。で、このとき私は「あーでもかぐや姫は最後に帰っちゃうけどねー」と思ったんだけれどその3秒後くらいに「ああそっか テクストから生まれたすべてはテクストに帰るのか」とか思ってうーわーと足をじたばたさせたくなりました。でもやめときました。


ところでなんで国文の授業を取っているかというと内容が漱石の『草枕』だからで、なんでだからになるかというと『草枕』には『ハムレット』のオフィーリア(を描いたミレーの「オフェリア」)が重要な要素として出てきているからで、なんでオフィーリアなのかというと今自分の取っているゼミが『ハムレット』をやっているからで、しかもこのゼミをとったときから「レポートはオフィーリアでやろう」と思っていたからっていう訳です(うざい文章)。

さて、このミレー(「落穂拾い」とか書いた人じゃないよ 別のほうの人)のOpheriaという絵は前から知っていたのだけれども、去年ロンドンにいるときにテートギャラリーで本物を見たときは本気でぞくぞくしました。オフィーリアが水に浮かぶ余りにきれいなその絵の中の彼女の顔が本当に狂気だったからです(因みにテートギャラリーではたしかこの絵と縦に並んでウォーターハウスのThe Lady of Shalottが飾ってあってその並びがなんかもう素晴らしく良かった印象があるのだけれども、本当にそうだったのか記憶は定かではありません)。
で、漱石は旅の途中で出会った那美さんという(気狂とか言われちゃってる)女性からこの絵を思い出しますが、そこでの描写は「オフェリアの合掌して水の上を流れていく姿・・・」となっており、ここで「え、でも絵の中のオフィーリアは合掌してないよな?」ってなるところが今日の光る竹でした。私は最初に『草枕』を読んだとき、絵はばっちり頭に浮かんでいたにもかかわらずこれをすっかり読み流していたので自分に軽くショックでした。


どうでもいいけどオフィーリアといえば私は小さいころに見た『赤毛のアン』の映画を思い出す。アンがオフィーリアのまねをして小舟に寝て川に浮かんだシーンがあったような気が(原作読んでないからあってるかわかんないや)。気がついたら舟に水がはいってきちゃってどうしよう!みたいな。当時はもちろんオフィーリアがどんな人かなんて知らなかったけれども、なんか今考えるとアンとはお友達にはなれないなとつくづくおもう。でも別のシーンでアンが病気になった子(友達の妹とかだっけ?)のもとに駆けつけたとき、メイドさんか誰かにお湯を沸かすように言った後「想像力があればそのくらいとっくにやっているはずよ!」と言う、その台詞は好きでした。でも同時に小舟の上のアンに「想像力があれば・・・」と言ってやりたくなりますね。てかこれらのシーンがどこまで本当なのか、10年以上も前の記憶ではあいまいです。

話がだいぶそれてしまったけれど、今日は授業で「オフィーリアには助けや救いはなかった(のか)」とかいうことを少しやって、まああくまで『草枕』を読むためにやっただけなのでそんなに突っ込んではやらなかったけれども、めちゃくちゃ面白かった。正直ゼミでやってる『ハムレット』読解よりも面白かったです(先生ごめんなさい)。あ、オフィーリアってギリシャ語で「助け」の意味なんだよ。