昼間から

プラネタリウムまどろみながら見てた。冬の太陽と夏の太陽と春秋の太陽が一緒に並んで西に沈んだ。どろっと眠くなる。でもアンドロメダがくじらに襲われそうになる話は起きてた。カシオペアが娘のアンドロメダの美しさを自慢したら妖精が怒って神様も怒ってだからアンドロメダを鎖でつないで生け贄にするなんてまったくなんて話なの。今月のテーマは『天空のデザイン』で、そっか星は、配置だな、って思いながら寝たり起きたりしてた。spatialize=空間化、というのはここのとこずっとテーマになっていて、卒論でも文字の空間化がどうのって話をしていたのだけれど、配置っていうのは考えてておもしろくて、物でも言葉でも人でも数字でもなんでも空間化されて配置された物として意識するとたまにすごいきれいでびっくりする。きれいな物はきれいで理由のある配置を持っている。意味はそれでも残念ながら、伴わないことも。
プラネタリウムの機械を見てたらzeissのロゴが!私のデジカメはカールツアイスレンズ。プラネタリウム作ってたのかー。

今日は友達と恐ろしくたくさんの計画を練った。実行出来そうなのかわからないけれど手の届く範囲で当たり前のことをしようとしているあたり、可能と思われる。時間がないことは、私も向こうも知ってる。あることもわかってる。




寝る前にいつも思うのは、覚えてるとか忘れないとかそういったことで、ないがしろにしてもされても「覚えている」のは救いで、忘却はもう救いようがない。私はとてもたくさん忘れた振りをする。知らない振りをする。真に忘却に陥っている人の前では自分もまた忘れていた振りをして知らなかった振りをして忘れたままの振りをする。忘れた人から忘れられた物事がすとんと抜け落ちているあの感じや、逆に忘れられた物事から忘れた人がプツンと切り離される(嘘みたいだけれど切り離されるのはいつだって忘れた人の方のはずだ)その感じを、冷ややかで当たり前のこととして知っている。気づく時は音も聞こえる。忘れた人が忘れている間、つまり物事が抜け落ちたりその人が切り離されたりしているその間、その人が知り得ないある種の完璧で憎むべき無邪気さと無神経さを、自覚的に装うことで、穏やかな笑いで装うことで、抜け落ちていないそれや切り離されていないことをわかりやすく言うならばなぐさめとして確認する、しかも忘れた人と同じくらいの位置まで物事から遠ざかって、そうしないともう、どうしよもなく悲しくてやりきれない。


でもやっぱりどうしよもないことってたくさんある。プルーストにだけじゃなくて私にだって誰にだって、マドレーヌと紅茶は必要だ。