デカダンスの人2


太宰治をひたすら読んでいるのですが。

ところで彼の『佐渡』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card317.html)という短編は、自分がダブリンに、あるいは中欧へ行ったときの気分を鮮明に蘇らせる。なので図々しくも彼は私の代弁者なのかと感じてしまう。

その「気分」ってのは、主人公が話のなかでワッサーマンの小説から以下のように引用してて、

「彼が旅に出かけようと思ったのは、もとより定《きま》った用事のためではなかったとしても、兎《と》も角《かく》それは内心の衝動だったのだ。彼は、その衝動を抑制して旅に出なかった[#「なかった」に傍点]時には、自己に忠実でなかったように思う。自己を欺《あざむ》いたように思う。見なかった美しい山水や、失われた可能と希望との思いが彼を悩ます。よし現存の幸福が如何《いか》に大きくとも、この償い難き喪失の感情は彼に永遠の不安を与える。」


でもそれよりもやっぱりあとに続く太宰の言葉がねえ。

佐渡には何も無い。あるべき筈はないという事は、なんぼ愚かな私にでも、わかっていた。けれども、来て見ないうちは、気がかりなのだ。見物《けんぶつ》の心理とは、そんなものではなかろうか。大袈裟に飛躍すれば、この人生でさえも、そんなものだと言えるかも知れない。見てしまった空虚、見なかった焦躁不安、それだけの連続で、三十歳四十歳五十歳と、精一ぱいあくせく暮して、死ぬるのではなかろうか。私は、もうそろそろ佐渡をあきらめた。明朝、出帆の船で帰ろうと思った。あれこれ考えながら、白く乾いた相川のまちを鞄かかえて歩いていたが、どうも我ながら形がつかぬ。白昼の相川のまちは、人ひとり通らぬ。まちは知らぬ振りをしている。何しに来た、という顔をしている。ひっそりという感じでもない。がらんとしている。ここは見物に来るところでない。まちは私に見むきもせず、自分だけの生活をさっさとしている。私は、のそのそ歩いている自分を、いよいよ恥ずかしく思った。」



中欧はまだよかったのですが。

ダブリンは佐渡だと思います。

ジョイスの『ダブリン市民』のいわゆる「麻痺した絶望」ってやつにびっくりして行った町は、観光バスもがんがん走っていたし、20世紀初頭でもなかったけれど、やっぱりそこはダブリンだったっていう思い出。

一人旅はもうしばらくしないね。いらない。


で、10月私は、旅に出ます。
でもそれとこれとは、大きく違う。


あ、なんでこんなことを書いたかというと、さっきニュースで故郷佐渡へ娘たちと帰った曽我さんを見たからです。



それにしても、「見てしまった空虚、見なかった焦躁不安」というループは、確実に終わらない。から、覚えておこうと思う。その何倍もの感動を得たとしても、覚えておこう。