自分で
滑らかしてしまった言葉の、誰にも求められてない収拾に疲れた
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まったくどうでもいいのだけれど、
夜のコンビニで、コンビニ前で座り込んでる男の子たちの一人におばさんが近づいてって、「覚えてる?」みたいに話し始めてそしたらちょっとして男の子も「あー」って思い出した様子、友達のお母さんとか近所のおばさんとかかと思えばそうではなくて、「なんかこのまえ○○のコンビニでさあ、いきなり話しかけれられてアイスおごってもらったんだよね」と友達に説明。おばさんは買ったばかりのアイスをまた少年にあげて話を続ける。
という様子を、母親を待ちながらぼんやり見てた。
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Coutaさん(id:Couta)とこから。
河本英夫 『日々新たに目覚めるために』
たとえひとつの作品で、ある境界を越えたらもはや意味を失い、それが何であるかを考える手がかりさえ失う場面がある。つまり、それ以上ひきはなすとなにもかも台無しになるが、その手前にとどまる限り意味形成の可能性のままにとどまってしまう領域がある。この場所を直接作品として示すことで、否応なく知覚の行為を行なわせるのである。この行為の回路こそが問題なのである。荒川の作品は、行為が否応なく作動せざるをえない場所を提示し、オートポイエーシスは、その作動の機構を示している。
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コンスタントに、2時間くらいしか睡眠をとらない日と、トータル12時間くらい睡眠をとってしまう日がある。
昨日今日は六時半にパチッと起きた。世界陸上放棄。
ベンヤミン「マダム・アリアーヌ、二番目の中庭左側」
毎朝、私たちのベッドの上に一日が、洗いたてのシャツのように置かれている。この譬えようもなくデリケートで、譬えようもなく目のつんだ織物、清らかな予言の織物は、私たちの体にぴったり合う。それに続く二十四時間における運は、目覚めの際に私たちが、それを掴む術を知っているか否かにかかっている。