エマニュエル・レヴィナス

机の上はいつもくちゃくちゃ

という人を私はよく知らないのだけれども、「他者(性)」の問題を定義し続けた有数の思想家とかで、こういうことを言っています。

 「コミュニケーションに挫折という文字が、あるいは非本来性という文字が刻印されているのは、コミュニケーションを融合として追及しているからである。二元性は統一性ないし単一性に転じるはずであり、社会的関係は統合をもって完成する、という考えが出発点となっているのだ。(・・・)コミュニケーションの挫折は認識の挫折とみなされているのだが、その際、認識の成功がまささに他者の隣接性、他者の近さを廃棄してしまうという点は無視されている。」

そういうと結構昔の私は他者性というものを無意識的に同一性の中に閉じ込めようとしていた感じがあって、まさにincommensurableな関係をもって挫折と思ってたようなものだけれども、そうじゃないなそうじゃないな、と数年前に思い始めてから頭の中に靄のようになってたものがすっかり晴れた感じがして。
他者を他者として認識したところでその「他者性」をどう扱うかというところまでは、彼のいうように無視してきたわけではなくとも、漠然としたイメージのままで、それは根底に「統一性への理想」を勝手に求めていたのかも知れないと思って少し怖くなりました。だって「二元性は統一性ないし単一性に転じるはずであり、社会的関係は統合を持って完成する」とかって怖いじゃん かなり。「繋がってる感」を求めるだけの意味での「コミュニケーション」なんて一生挫折と並んでれば!なんて思っちゃうくらいの気分になりました。
それはそれで・・・ってところもありつつ。

因みにこのことは『現代文学理論』という本の中で土田知則という方が説明してくれていますが、そこで彼の使う「真摯な体験として"他者"を自覚する」という言い回し、その「真摯」ってところ、が、ひどく気に入って、なんかこういうのがいいなあ と何はともなく思いました。



で、そんなことよりバイト先に新しい人が入ってきていまして、その子同い年だったんだ わーい。私のバイト先はみんなかなり年上で、25歳くらいかなあと思っていた人が「もう三十路なんですよ」、みたいなことが立て続けに起こってあれなんだほとんどみんな30代じゃんって少し驚いていた時だったので。ここ1,2年、25歳以上の方と知り合いになる機会がぐぐっと増え、何人かの人を見ていると30ってのが若いんだか年なんだか分からなくなる。バイト先のある人に「でもみんな30過ぎとかにはあんま見えないですね」みたいなことを言ったら、「みんな責任感のないことばっかしてるからじゃないですかー」と穏やかに返されたのが印象的。そんなものかなー レジ打ちの時「客層」を打ち込まなくてはいけないのでお客さんの姿を見ながら「この人もびっくりな歳かも・・・」とかよく思いますが、でもとにかく自分は30まであと9年あるなーイエイ。
とか考えながら今日休憩中にスーパーカーのWonder Word epを買いました。タワレコの試聴機のところで今にも踊り出しそうな感じで聴いてる男の子を見てなんとなくいい買い物した気になったんでしたイエイ。
                     中身も良かったですよ。